
文化・芸術三田会 名誉会員 インタビュー
川添 象郎 Shoro Kawazoe
慶應義塾の思い出、文化創造の拠点「キャンティ」
写真:大宮浩平
2022年撮影 キャンティ 飯倉片町本店にて
川添 象郎
塾員(幼稚舎・慶應義塾中等部卒業)
文化・芸術三田会 名誉会員
音楽プロデューサー
1941年東京都生まれ。父はイタリアンレストラン「キャンティ」を創業し、国際文化事業で知られる川添浩史、生母はピアニストの原智恵子。明治の元勲、後藤象二郎を曽祖父にもつ。1977年、村井邦彦とアルファ・レコードを創設し、荒井由実、サーカス、ハイ・ファイ・セットなど、現在では「シティポップ」として世界的にも評価される、都会的で洗練された音楽をリリース。YMOのプロデュースでは、世界ツアーを成功に導き、日本を代表するポップカルチャーとして世界的存在に仕立て上げた。青山テルマ feat.SoulJa『そばにいるね』は日本で最も売れたダウンロードシングルとして、ギネス・ワールド・レコーズに認定。著書に『象の記憶』(DU BOOKS)。
文化・芸術三田会 名誉会員であり、慶應義塾幼稚舎・中等部をご卒業された川添象郎氏に、義塾での思い出や文化創造について2022年から2024年にかけて複数回にわたり取材を行いました。
川添象郎氏は、2024年9月8日にご逝去されました。本記事は、生前に文化・芸術三田会が行った取材に基づくものです。氏の文化活動に関する貴重な情報は、塾生や塾員、文化プロデュースにとって有意義な内容であると判断し、ご家族のご了解を得た上で、その一部をオンライン上に公開する運びとなりました。
文化・芸術三田会 2025年5月
川添象郎さんと慶應義塾
泉志谷 もともと、私の義塾での恩師にあたる坂井直樹先生(環境情報学部元教授)が川添象郎さんと旧知の仲であり、ご紹介にあずかることとなりました。卒業時に「文化プロデュースの修行がしたい」と相談したところ、開口一番「象ちゃん(川添象郎氏)の元が一番いい」と。あの文化サロン「キャンティ」の御曹司であり、後藤象二郎の末裔、YMOやユーミン(松任谷由実氏)を手がけた鬼才のプロデューサー、さらにはお母様が日本初のショパンコンクール入賞者(原智恵子氏)で、ご本人はフラメンコギタリストでもある――と矢継ぎ早に紹介され、いささか混乱しつつも「それでも伺います」と申し上げました。それならばと「私の紹介だと言って、こちらに連絡しなさい」と、川添さんの連絡先を手渡してくださいました。
川添 懐かしいね。坂井直樹さんとは長いお付き合いがあったので嬉しい連絡でした。
泉志谷 象郎さんのもとで学ばせていただいた経験が、私にとって文化の仕事に携わる第一歩となりました。ゆえに、文化・芸術三田会の創設に際しても、その精神的源流の一つとして象郎さんの存在を挙げることは、決して過言ではありません。また、ご子息・大嗣さんとは無二の友情を築かせていただき、共に文化事業も行い多くの刺激をいただきました。
さらに、象郎さんご自身も幼稚舎・中等部ご出身の塾員であられますから、このたびぜひにとインタビューをお願い申し上げましたところ、快くご承諾くださり、大変光栄に思っております。そして、象郎さんの盟友であられる村井邦彦さん(1966年法学部卒業)も塾員でいらっしゃいますね。本日は、これまでなかなかお伺いできなかった、象郎さんと義塾との思い出についても、お話をお聞かせいただければと思います。
川添 正直に言えば、幼稚舎の思い出は遠い昔だからほとんど忘れてしまいましたね。中等部に入ってからは、ご存知の通り慶應の中学っていうのは中等部と普通部とあって、普通部は男だけで中等部は女の子がいる。しめた!と思ったわけ。中等部に入って嬉しかったけどさ、でも、入ってみるとそんなに大したことはなかったの。入学式のときに、クラス別にわかれるじゃない。僕のクラスにね、隣のクラスから1人凶暴なやつが上がり込んできた。そいつは子供の頃から親父に剣道を習ってて剣道がえらくうまかった。それで僕はそいつと仲良くなっちゃって、中等部に剣道部つくって……と、そういう思い出はあるね。
あと、福澤幸雄(福澤諭吉先生の曾孫)は兄弟のように仲が良かったね。キャンティにもよく遊びに来ていて常連の一人だったし、親父(川添浩史氏)にも可愛がられていたなあ。あと、歌舞伎役者の中村壱太郎さん、彼も慶應だよね。以前、僕が地下で食事をしていた時に、たまたま個室にいた泉志谷くんと彼(中村壱太郎氏)が挨拶にきてくれて、一目見て「あ、(初代)吾妻徳穂さんに似ている」と、驚きましたね。徳穂さんは、彼の曽祖母様だよね。聞けば、『アヅマカブキ』を冠した日本舞踊の公演を国立劇場で行う(『アヅマカブキ2023』)と言うから、それは素晴らしいことだと思ったわけ。彼は、フラメンコと日本舞踊を混ぜたりしているし、『ART歌舞伎』という現代的な衣装のユニークな公演もつくっていてね、やはり(初代)吾妻徳穂さんとの繋がりを感じるね。うちの親父と徳穂さんは仲間だったから。

左より、坂井直樹氏(環境情報学部元教授)と川添象郎氏が居合わせて
写真:大宮浩平
2017年撮影 キャンティ飯倉片町本店アルカフェにて
プロデュースについて
泉志谷 最近、慶應義塾大学にはプロデュースを学ぶ授業が設けられているらしいですね。きっと今の在学生や、将来プロデューサーを目指す方々にとっても、象郎さんのお話は学びの多い内容だと思います。もし、象郎さんご自身のプロデュース論などがあれば、お話をうかがえましたら。
川添 プロデューサーを育てようとしているの?でも、実際はプロデュース論なんていうのはないんだよ。何よりも、お金がないとだめだね。人、金、時間、これがプロデューサーが見なきゃいけないこと。それに、もし舞台演劇なんかをやろうと思ったら、狭い世界だけ見えてちゃいけないんだよ。わかる?いろんなものを見てさ。
例えばね、演劇やりたいと言ったら、様々な演劇を見なきゃいけない。その中で才能ありそうな人を見つけてさ、キャスティングしていきゃいいんだよ。ただ、その演劇と言ってもね、例えば俳優だけにこだわらず、歌舞伎とか能とか狂言とか、そういうのも全部ひっくるめて良いとされる舞台演劇は全部見て、その中から才能のある人たちを集めればいいんだよ。
泉志谷 つまり、企画の性質によっては、必ずしも専門領域の枠にとらわれる必要はないということですね。
川添 そうそうそう。それでね、みんな勘違いしちゃうのがね、歌舞伎やってる人は歌舞伎しかやらないとかね、能やってる人は能しかやらないとかね、そんなことないんだよ。みんな面白く良い作品をやりたいわけだから。だからキャスティングしていけばいいんだよ。とりあえず話しかけてみればさ、新しいことをやりたいって人は結構いるんだよ。
そこで重要なのが企画。コンセプト。それが面白くないと誰もやらないね。そこがプロデューサーの腕の見せどころってことだね。実は今、映画の企画を書いているんだよ。実は2つ企画があって……つまり何を言いたいかというと……まぁ要するにプロデューサーというのはこういう役割なんだよ。コンセプトを作って、一番大事なシーンをちゃんと説明して、人を巻き込んで、お金を集めて、それであとはプロを連れてきてさ。映画で言えば、こういうプロジェクト、こういうコンセプトで、こういう物語だ、という枠組みのアイデアを組み立てて、うまく繋げて、3人ぐらいの作家を集めてああだこうだと言えば、きっとこれだというプロットが生まれてくるよね。
泉志谷 プロデューサーとは、企画の骨組みをつくり、人を巻き込み、審美眼をもってプロジェクトを実現に向けて動かしていく存在であると。
川添 そう。それに、実はピュアラックも意外と重要なんだよね。昔、加橋かつみくんのレコーディングをパリでしていた時の話だけれど、『ヘアー』という当時アメリカで大受けしてるミュージカルのリハーサルやってるって彼が言うんだよね。それで、かつみが街で仲良くなったカルロスって男の子がいて、そいつも一緒に行こうよってことになったら、そこに変なオヤジがついてきたわけ。
髭も変なやつで、怪しいんだけれど、まぁいいやってみんなでわしゃわしゃ行ったわけ。そしたら、そのオヤジが、サルバドール・ダリだったんだよ。そんなこと全然知らないで馬鹿話しながら行ったら、また『ヘアー』の舞台が大変素晴らしいものでね。そのプロデューサーはどこかにいねえかって探していたら、舞台袖で演出をしてるやつがプロデューサーだって、ステージマネージャーかなんかが教えてくれてさ。
プロデューサーはベルトラン・キャステリというやつだったんだけど、そいつのところへ行ったらさ、ダリが後ろからよぼよぼついてくるんだよ。しょうがないからそのまま「私は日本のプロデューサーだから、日本で『ヘアー』をやらせてほしい」って言ったらさ、ベルトラン・キャステリが僕の顔を見たあとにダリの顔をジっと見て「わかった、わかった、いいよ」って言うわけ。ダリ効果だよね。

写真:大宮浩平
2022年撮影 キャンティ 飯倉片町本店にて
文化創造の地、キャンティより
泉志谷 意図して真似できるようなものではありませんが、私も象郎さんのもとで学び、末席ながら文化事業、プロデュースの仕事に携わるなかで、そうした追い風のようなもの実感することがあります。思いがけない偶然が立て続け起こっていく。物事が進むときには、まるで何かに導かれているかのような巡り合わせを感じるものですよね。
川添 面白いよね。あと、僕は全然人見知りしないからさ、誰が偉いとか偉くないとか関係ないから、だから誰とでもすぐ仲良くなっちゃう。武満徹さんなんかも懐かしいね。武満さんにはいつも麻雀に誘われてね。あと柴田錬三郎っていう作家って知っている?『眠狂四郎』を書いた人だけど、よくシバレンさんのところにね、ポーカーに誘われて行ったよ。あとね、作家の黒岩重吾っていう人。その人にもよく誘われたかな。最初に行ったときにね、僕はコテンパンに勝ったわけ。そしたらシバレンさんはすっかり喜んじゃってさ。シバレンさんもかなり強いんだけどね。しょっちゅうそこに連れて行かれてポーカーをやっていたよ。ほら僕はさ、カードマジックの達人じゃない。だからね、楽勝だよ。
泉志谷 象郎さんが何気なくお話しされるお名前の数々は、どれも文化史に名を残すような錚々たる方々ばかりで、聞いていて思わず圧倒されてしまいますね。
川添 そうでしょう。これはすごいラッキーだと思う。キャンティは、うちの親父と義理の母親(川添梶子氏)が作ったものだけれど、物心ついた時からそこに色んな芸術家や政財界の人たちが集まってきていた。それで色んな人に色々教わったから。色んなことやったよね。
だから、本当に様々なことに興味を持って集中してばっと身につけるようにしてた。それが集まってきて、結果としてプロデュースの仕事になるんだよね。だから、プロデューサー教育っていうなら、住み込みとかで背中で学ぶっていうのが一番いいんじゃないかな。優秀なプロデューサーのところにくっついていったら、きっと10年もすればわかるよ。
要するにね、ヒットプロデューサーとかヒットディレクターなんてね、そう何人も出るわけじゃないから、10年か20年に1人優秀なのが出てくれば、それでいいんじゃないの。それでもなりたいと言うなら、何よりも色んな人生経験をしなきゃ駄目だよね。豊かな経験があるから、豊かな作品ができるんだからね。

第1回 インタビューを終えて キャンティ飯倉片町本店アルカフェにて、オフショット 2022年12月2日
左から川添陽子氏(川添象郎さん奥様)大宮浩平氏(写真家) 川添象郎氏 泉志谷忠和氏 森田悠介(ベーシスト)
2022年撮影 キャンティ 飯倉片町本店にて